HODGE'S PARROT

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「私は告発する!」という喜び

数年来、私は、フランスにおいてユダヤ人を標的として試みられている中傷キャンペーンの動向を、驚きと嫌悪を募らせながら見守ってきた。私にとって、この様相は奇怪そのものである。奇怪というのは、あらゆる良識、あらゆる真理、あらゆる正義の外に位置するものという意味であり、われわれを数世紀後方に押し戻しかねない、愚かにして、盲目的な事態という意味であり、そして、その行き着く先として、あらゆる人間の祖国を血に染める宗教迫害という最悪の凶事しか考えられない事態という意味である。


エミール・ゾラユダヤ人のために」(小倉孝誠+菅野賢治 編訳『時代を読む』p.233、藤原書店

朝日新聞社の『論座』(2005年4月号)に「ジェフ・ギャノン事件」に触れている記事があった。TBSワシントン支局長、金平茂樹による「政府との緊張関係はどこに行ったのか──米CBS誤報事件の教訓」という記事がそれである。

内容は、CBSテレビの「大統領軍歴誤報事件」でCBSイブニングニュースのアンカーマンダン・ラザーが辞任に至った「メディアの問題」を導きの糸に、政府とメディアの関係、ブログが従来のメディアに与える影響力を考察したものである。
とても読み応えのある記事で、ノーム・チョムスキースーザン・ソンタグに関するエピソードもある。一読をお勧めする。

一読をお勧めするのは他でもない。それは僕がこれまで何度も「問題化」している「暗いニュースリンク」における「ジェフ・ギャノン事件」と、この記事における「ジェフ・ギャノン事件」を読み比べて欲しいからだ。

金平茂樹は「ジェフ・ギャノン事件」の「問題点」を的確、かつ「客観的」に指摘する。それは、ブッシュ大統領の記者会見に、自称ブログ「ジャーナリスト」が紛れ込んでいて、政府に有利な質問ばかりしていたこと、すなわち「政府の宣伝道具(a tool of propagannda)」としての「ブログの存在」である。ここではジェフ・ギャノンがゲイであることには触れられていない。

しかしながら、「暗いニュースリンク」の「ジェフ・ギャノン事件」はどうか。

ジェフ・ギャノン事件:共和党活動とゲイ専門売春を兼務するスキンヘッド男はいかにしてホワイトハウスに自由に出入りできたのか?

ブッシュ大統領の記者会見に偽名を使って出席し、現政権に極めて都合の良い歪曲発言をするニセ記者が、密かに共和党から支援を受けた熱心な保守派活動家で、しかも本業がゲイ専門の売春夫としてホワイトハウス内部に顧客を抱えているかもしれないとしたら、それは共和党支持者が唱えるスローガン「道徳的価値感(moral values)」に背反するだろうか?

いったいここで「共和党の道徳的価値観」を<反復・再現>しているのは、誰か。マクレラン報道官に対する「仄めかし」と同性愛に対する「揶揄」以外の「ニュースヴァリュー」はいったい、何か。
「かもしれないとしたら」「だろうか?」という「仮定」「推論」の後に、

これこそ、現在ホワイトハウスを中心に進行している、一大スキャンダルの内実なのである。

という「断定」は、いったい何を狙っているのか。

こういうテクストを読むと、「中傷キャンペーン」や「印象操作」とは、いったいどのようにして行われるのだろうかと意識せざるを得ない。

いつもは冷静沈着なマクレラン氏の焦る姿に疑惑は深まるばかりである

このマクレランの「焦る姿」を注視している<視点>は、いったい何処(誰)にあるのだろうか。いったい何を「仄めかして」いるのだろうか。

「印象操作」とは、このようなことを言うのではないか。懸案の事項が「真理」である必要はない。疑惑を「そのように思わせること」が出来れば、それでOKなのではないだろうか。何かしらのイメージが形成されれば、それで十分なのではないか。

しかしそこで「利用」されるネガティヴなイメージとは何か。それは、同性愛である。政治的敵対者を貶めるために、同性愛を利用していることだ。ここで行われている作業は、ジェフ・ギャノンを貶めていると同時に、同性愛も貶めているのだ。同性愛に関する差別的メッセージを発しているのだ。敵対者への「憎悪を増幅」させるために、劣情と扇情に訴える卑劣な手段を取っているのだ。

身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。身振りは、人間の、<間にあること>をあらわにし、人間に倫理的次元を開く。しかし、ポルノ映画において、たんに他の者たち(あるいは自分)に快楽を与えるという目的に向けられた手段である身振りを遂行している人が、撮影されている自らの手段性の内にさらしだされている、というだけの事実に不意をつかれる時、この人はこの手段性によって宙吊りにされ、観者にとっては、新たな快楽の手段になる、ということである。


ジョルジュ・アガンベン『人権の彼方に』(高桑和巳 訳、以文社)p.64

ジャフ・ギャノン事件をスキャンダラスにスペクタクル化する理由は、当人の「差別意識」に他ならない。ジェフ・ギャノンが異性愛者ならば、これほど彼の性的指向に言及する必要はないはずだ。だいたい裸体を掲載する必要があるのだろうか。

ここで思い出すのが、「ドレフュス事件」である。アルフレッド・ドレフュス大尉のスパイ疑惑は、「スパイ疑惑そのもの」よりも、彼の「ユダヤ人で<あること>」に問題がシフトした/シフトされた。ユダヤ人であることがスパイ疑惑と「同一レベル」で「語られ」、反ユダヤ主義に「迎合」する結果に及んだ。

暗いニュースリンク」で描かれている「ジェフ・ギャノン事件」に同様の危惧をどうしても感じてしまう。

この「ジェフ・ギャノン事件」のエントリー以前は、僕はここのサイトの記事を興味深く読んでいた。しかし、それは、一気に醒めた。そして「醒めた目」でこのサイトを「注視」すると、別の「意味」が立ち現れてくる。
このサイトでは、ブッシュ共和党政権の「不正義を告発」しているが、いったい何のために、そのようなことをしているのだろうかという疑問だ。どんな「欲望」が、そこに生じているのか、ということである。

「ジェフ・ギャノン事件」の<差別的粉飾>を見て思うのは、むしろ「不正義」に対する<喜び>なのではないか。

そうだ、カミュよ、僕も君のように、あの(ソ連の)収容所を、許しがたいと思っている。
(中略)
ところでカミュよ、だからと言って、ソ連ならどんなことでもありうると頭から思いこんでいる、反共主義者が悲しむはずがない。こうした報道によって彼らのうちに起こされた唯一の感情は、──言いにくいことだが──喜びなのである。彼はとうとう証拠をにぎったぞと、またこれからも予想どおりのものが見られると思って、うれしいのである。
そこで、反共主義者もそうバカではないから、労働者に働きかけないで、「左翼」の善良な人々に働きかけ、彼らをおどかし震えあがらせるのだ。なにか悪税に反対して口をひらくものがあると、「じゃ、収容所は?」と言って、即座に相手の口をつぐませてしまうのである。共犯だと脅して、収容所を告発するように強制する。あざやかな手段である。彼は気の毒にも、コミュニストを敵に回すか、「地上最大の罪悪」の共犯者になるかである。


ジャン・ポール・サルトル『革命か反抗か ──カミュサルトル論争──』(佐藤朔 訳、新潮文庫)p.89-90

もし政治的敵対者が「善良」であったならば、それを批判することは、非常に困難である。しかし相手が「不祥事」を起こしてくれたならば……相手を批判することは格段に容易になる。
そしてその「あまりの容易さ」が──喜びのあまり──「人権」を蔑ろにしてしまう。その不正義を嬉々として告発する場面において、当人の持っている「差別意識」が曝露される。

問題は、なぜこのような人物がリベラルを「自称」し、まわりもそれを認めているのかだ。

人が、道具、方法を用いて事象を説明してゆくのではなく、事象を説明する必要、説明したいという欲求、説明してみせるという意志こそが、発想、道具、方法、ひいては学問の一体系までを生み出すのだ、と言ってみることは過度の一般化になるだろうか。ここでわれわれは、まず方法が存在し、それが正しく事象に適用される時に真実は開示される、という目的論的思考を捨ててかからねばならないのかもしれない。むしろ、証明すべきこと、結論づけるべきことが先に措定され、その上で、事後に、それを証明するのに適した発想が生まれ、小道具が発明され、パラダイムが洗練されていくという手続きが、われわれの現実の思考形態、論証作業の大部分を支配しているのかもしれないのだ。


菅野賢治ドレフュス事件のなかの科学』(青土社)p.23