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共和党議員、米軍の差別規定撤廃を求める

アメリカ共和党下院議員イレーナ・ロス-レーチネン氏(Ileana Ros-Lehtinen)は、米軍の同性愛差別軍規、「"don't ask, don't tell" policy 」の撤廃を求めることを表明した。

Republican lawmaker calls for end to military's gay ban [Advocate]
「"don't ask, don't tell" ポリシー」は、ゲイ&レズビアンが軍務に就くにあたり、自分が同性愛者であることを公言・言明することを禁じ、また同時に、軍当局が彼らの性的指向を尋ねること──質問すること──も禁じている。この明らかに差別的で、軍における同性愛者の「身分」を不適切なものとして「同定する」法規は、クリントン民主党政権下において制定され、このポリシーの「効力」によって、1万人以上のゲイの兵士が除隊させられた。


なぜ、同性愛だけが「問題」にされるのか──あるいは、なぜ、異性愛は「問題にならない」のか。異性愛を公言することと、同性愛を公言することの「差異」は、いったい何か……というより、どのような差異が、いま・ここで「創造」されているのか。

同性愛者というアイデンティティを主張したり公言する発言が、人を不快にするふるまいだと解釈しうるのは、唯一、そのような自己定義のなかで同性愛について語ることのなかに破壊的なものがある場合だけである。しかしその言葉が行使していると推定されている破壊力を、その言葉に与えているのは何なのか。そう推定されているからこそ、その発言を聞く人は、自分がそれによって誘惑されたと感じるのではないか。ある意味でこのような受け取り方は、フーコーの公式を逆にたどることである。フーコーは、まず同性愛の「行為」があって、つぎに同性愛が「アイデンティティ」として立ち現れてくると考えたようだが、軍は、アイデンティティへの帰属表明をすべて、行為をおこなうことと同義とみなしているのである。しかしアイデンティティを行為とみる見方には二つあって、両者を区別することが重要だ。つまり、「わたしは同性愛者です」ということの意味が、「わたしは同性愛の行為をおこなっており、同性愛の実践や関係に関与している」と言うことなら、わたしはただその種の行為に言及しているだけで、厳密に言って、けっしてそれをおこなっているわけでも、発話行為をつうじてそれをおこなっているわけでもない。しかしこの主張を、軍はべつの理屈で読んでいるようである。それによれば、「わたしは同性愛者です」という主張は、まさに同性愛の行為の一つとなり、行為が起きたことの報告ではなく、言説によって行為そのものを発生させることなのである


ジュディス・バトラー『触発する言葉』(竹村和子訳、岩波書店

「"don't ask, don't tell" ポリシー」が想定している事態とは、同性愛者であると言明・発言することが、すなわち同性愛行為の直接的な遂行であり、それが軍隊内の秩序(モラル)に影響を与えるということである。
さらに付記しておきたいのは、このポリシーにおいては「同性愛者であるかどうかを質問すること」も禁じているという事実である。それは、つまり、同性愛者は、「自分が異性愛者である」という<嘘>をつくことさえも不可能であるということだ。

「結局、オースティンが変則、例外、『不真面目』、引用(舞台の上で、詩の中で、あるいは独白の中で)として排除したものは、それがなければ『成功した』遂行的発言すら存在しない一般的引用可能性──むしろ一般的反復可能性──の限定された変容ではないのか。それゆえ──逆説的だが不可逆的な帰結として──成功した遂行的発言は、必然的に『不純な』遂行的発言なのである。」

ここでデリダが述べていることは、ありていに言えば、「嘘」をつくことができる(つまり「正常な」言語行為の形式的模倣)ことこそ、「真」を述べることの前提条件をなしているということである。真面目/不真面目、正常/異常というオースティンの区別は、それゆえ単なる二項対立ではなく、一つの価値秩序の提起であり、一つの「目的論的かつ倫理的な決定」の表白にほかならない。デリダのオースティン批判は、まさにこの「隠された形而上学」に向けられているのである。


野家啓一『言語行為の現象学』(勁草書房

また、これに関連して、例えば、ある同性愛の人物が「共和党内にいること」を「スキャンダラスに問題化」する発言は、いったい誰がどういった「内容」を「推定」しているのか。どんな事態を「創造」しているのか。どんなメッセージ/プロパガンダを「中継」し、そのメッセージ/プロパガンダを「実演」しているのか。

それは、ある一つの価値秩序の表明に他ならないからだ。「目的論的かつ倫理的な決定」を──恣意的に──断行していることに他ならないからだ。その発言者がどれほどリベラルな立場であると「自称」していようが、そこにある価値判断は「形而上学的」なものでしかない。彼は神のごとく、または大統領のごとく、ある特定の属性を持つ人たち=マイノリティの「身分」を貶め、排除を敢行しているだけだ。

最近のある考え方では、ある種の発話の「内容」を理解しうるのは、唯一、その発話がおこなう行動の次元においてだとみなされる。言葉を換えれば、人種差別的な呼び名は、人種的劣性というメッセージを中継するだけでなく、そういった「中継」自体が、人種上の従属化を言語によって制度化するものである。したがって憎悪発話は、人を不快にする思想・思想群を伝達するだけでなく、それが伝達しているメッセージをまさに実演しているとみなされる。すなわち伝達は同時にふるまいの形態となる。


ジュディス・バトラー『触発する言葉』


マイアミ選出の共和党議員ロス−レーチネン氏は、「"don't ask, don't tell" ポリシー」の法規としての機能の疑わしさ、このポリシー発動によるコスト問題を挙げ、そして

我々の国家に忠誠を尽くすことを誓った人々に対し、我々は感謝すべきである

と述べた。
「国家に忠誠を尽くすことを誓ったゲイの兵士に対し、感謝をする」という事態を「創造する」行為遂行(パフォーマティヴ)は、その「事態」を「成功」させるために、「国家に忠誠を尽くすことを誓った<どんな人々>に対しても──差別せず──感謝しなければならない」というコンスタティヴな主張が、前提としてあることを明記しておきたい

ロス−レーチネン氏は、コネチカット州選出のクリストファー・シェーズ共和党議員、アリゾナ州選出のジム・コルベ共和党議員、及び70名の民主党議員らと共同で、12年を迎えた「"don't ask, don't tell" ポリシー」廃止に向けての議案を提出している。