HODGE'S PARROT

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Saint, Symptom, Sinthome

非政治的な領域は、こうして、トランプの家のように崩壊を開始した。市場経済は政治的である。芸術は政治的である。性(セックス)と結婚は政治的であるといったふうに。だが哲学的に言えば、反対の方向のほうが大切なのではないだろうか? 哲学は「政治的でないものは何もない」を証明する代わりに、むしろ<存在>それ自体が政治的であるのはどうしてか、私たちの存在論的空間が、何事かも政治的なことの染みから逃れだすことができないよう、どのように構造化されているのかといった、正反対の問題に焦点を合わせねばならなくなっている。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社

今週の『ニューズウィーク』には、早速ローマ法王死去に関するスペシャルレポートが載っていた。といっても、さほど新味のない──事前に準備してあったシナリオのような、何時でも何処でも通用する──「穏当」な記事であった。つまり、外交など国際政治的な活動を評価し、その一方で教皇の保守性を批判する、といったものだ。

ヨハネ・パウロ2世カトリック教会に与えた影響を評価できるようになるのは、数十年先になるだろう。新たな信仰問答集を作って教義に明確性をもたらしたのは確かだが、耳を傾けるのは同調者だけだった。やたらと「聖人」の数を増やしもした。
では、この法王自身は聖人だったのか。


ケネス・ウッドワード「地上に残した法王の足跡」(『ニューズウィーク日本版』2005・4・13)

ううむ。どう考えても、現在のヨハネ・パウロ2世に対する評価基準は、聖人というよりは、政治家・外交官のそれだと思うのだが。

ところで、このローマ法王の(同性愛差別的な発言も含む)「保守性」。これを「逆説的」に考えれば、同性愛差別は頑としてあり、よって、「この否定」に対して抵抗しなければならない、という力(意志)の備給にもなるのではないか。

……という弁証法的な思考は、カトリック思想家の罠に嵌りそうな気がする。

というのも、チェスタトンがなかなか面白いことを言っているからだ。

今日の世界では至るところで、自分はまちがっているかもしれぬと吹聴してまわる御仁にお目にかかる。実に気ちがいじみたと言うか神を恐れぬと言うか、驚きいった言葉である。言うまでもなく自分の立場は正しくはないかもしれぬ──そうしゃべり歩く御仁にお目にかからぬ日とてはない。言うまでもなく彼の立場は正しいにきまっている。そうでなければ彼の立場ではありえない。


ニーチェはいわゆるエゴイズムの哲学を説教した。だがこれはいかにも無邪気というほかない。なぜならニーチェは、エゴイズムを説教することでまさしくエゴイズムを否定しているからである。何かを説教するということは、何かを他人に与えることである。エゴイストは人生を仮借のない戦いと見るはずだ。ところがエゴイストたるニーチェは、その戦いで自分の敵となる人間に、ご苦労千万にも十分な訓練を与えてやろうとするのである。利己主義を説教することは利他主義を実践することにほかならぬ。


G・K・チェスタトン『正統とは何か』(安西徹雄訳、春秋社)

それにしても、こういった「ゆるぎない確信」は、「反省する意識」とは対極、というか水と油のようなものではないか。カトリックの「思考」とはこういうものなのではないだろうか。そういえばアンリ・デュティユもオリヴィエ・メシアンの「確信」に違和感を述べていたのを思い出した。
そして究極の言説は、これだ。

思想を破壊する思想がある。もし破壊されねばならぬ思想があるとすれば、まずこの思想こそ破壊されねばならぬ思想だ。それこそ究極の悪であり、あらゆる宗教的権威はこの悪と対決することを目的としたのである。


何物も拒否すまいと意志する者は、意志の破壊を意志する者にほかならぬ。なぜなら、意志とは何物を選択することであるばかりでなく、他のほとんど一切を拒否することでもあるからだ。


意志の崇拝者たちはすべて、ニーチェからデイヴィドソン氏に至るまで、実はまったく意志を欠いている。彼らは意志するということができない──いや、ほとんどその意欲さえもない。その証明が欲しいと言うなら、しごく簡単に見せて進ぜよう。ただ、次の事実さえ見ればよろしい。彼らは意志というものを、何か拡大するもの、何かを破って出て行くもののように語っているが、これはまったく逆なのだ。意志の行為はことごとく自己限定の行為である。ある行動を望むとは、すなわちある限定を望むことなのだ。この意味で、あらゆる行為はすべて自己犠牲の行為にほかならぬ。何物かを選ぶとは、他の一切を捨てることである。


G・K・チェスタトン『正統とは何か』

また、グレアム・グリーンが「法王の矛盾」というエッセイで描いたカトリックに対する「感嘆」も記しておきたい。

このように極端に違うふたつの状況をつくり出すことができるのはイタリアのカトリック教会の力であり、フランシスコ会修道院で、ある朝早く十二人の女性たちに混じってひざまついたときにも、サン・ピエトロ大聖堂で歓声をあげる群衆にもみくちゃにされたときにも、まったく同じ考えが浮かんだのであった。結局のところそれは、こんなものが果たして生き残れるだろうかという疑問ではなくて、これが打ち負かされることがあり得るだろうかという思いであった。


グレアム・グリーン『神・人・悪魔』(前川祐一訳、早川書房

ところでジジェクは、ラカンの「サントーム」という概念を使って「イデオロギー批判を考え直さなければならない」と書いている。サントームは「症候」とは区別される。ジジェクによると、症候は、解釈によって解読されるべき暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に「意味─の─享楽」を獲得するものだという。

だが、サントームという次元を考慮に入れたとたん、イデオロギー的経験の「人為的」性格を告発し、イデオロギーによって「自然なもの」「与えられたもの」として経験された対象がじつは言説による構築物であり、象徴的重層決定のネットワークの結果であることを曝露するだけでは十分でなくなる。もはや、イデオロギー的テクストをコンテクストの中に置き、その必然的に見落とされていた余白を眼に見えるようにする、というだけでは十分ではない。われわれのなすべきことは、サントームをコンテクストから分離し、その徹底した馬鹿らしさを明るみに引きずりだすことである。
(中略)
われわれは、弁証法的媒介、つまり、現象に意味を付与するコンテクストを加えるのではなく、それを除去するのである。


スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社