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ホワイトハウス公認ブロガー

ホワイトハウス、初めてブロガーに記者パスを付与 [ライブドア・ニュース]

グラフ氏は、ワシントンのニュースメディアをテーマとするブログ「フィッシュボウルD.C.」を運営している。最近、ホワイトハウスの閉鎖性や記者の定義が話題になったことから、ホワイトハウスに定例記者会見証を申請してみようと思い立ったという。そして、なんとわずか1週間の審査を経て同氏に記者会見証が与えられた。

やっぱりアメリカのこういうところって好きだな。

で、この23歳の若きブロガー、ギャレット・グラフ氏のブログ「フィッシュボウルD.C.、FishBowlDC」を見ると、この人、民主党の大統領選に出馬したヴァーモント州知事ハワード・ディーン氏のキャンペーンに参加していたという。
ディーン氏と言えば「超リベラル」で同性婚支持者だ(ま、「あの絶叫」が顰蹙を買い対立候補に利用され結局ジョン・ケリーに負けたのだが)。

また、「FishBowlDC」のリンク先には、アンドリュー・サリヴァン氏(Andrew Sullivan)のブログ「Daily Dish」がある。サリヴァン氏はゲイであることをカミングアウトしているジャーナリストだ。

こういったブログが「ホワイトハウス公認」なのも、やはりいい。

それと「ライブドア・ニュース」の後半で触れられている「ジェフ・ギャノン・スキャンダル」。ウェブ上の右翼系新聞社、タロン・ニュースのジェフ・ギャノン記者(本名ジェームズ・ガカート)が、同性愛者でゲイポルノサイトの運営者だったというスキャンダル。ギャノン氏は、いわゆる日本的に言えば「ネット右翼」的な言動を弄していただけでなく、実際にホワイトハウスに出入りしていた人物だった。しかし、彼の「素性」は「リベラル・ブロガー」によって曝露/攻撃された。

ジェフ・ギャノン事件:共和党活動とゲイ専門売春を兼務するスキンヘッド男はいかにしてホワイトハウスに自由に出入りできたのか? [暗いニュースリンク]
Conservatives off the deep end [Advocate]
ただ、僕がこの事件で腑に落ちないのは、ジェフ・ギャノン氏がゲイでハスラー(セックス・ワーカー、性産業従事者)だからといって、それがいったいどんな「問題」があるのか、ということだ。
セックスワーカーは政治的な言動をするな、とでもいうのだろうか。性的指向によって、政治的立場も<決定>される/されなければならない、ということだろうか。実際、彼の「政治的な発言内容」の<考察>よりも、男娼であるという「立場/資格」が<揶揄>されていないだろうか。何より、ゲイでセックスワーカー共和党を支持してはいけないのだろうか?

僕が持つ共和党のイメージの一つ。それは──高校の教科書で習った──「奴隷解放宣言」を行ったリンカーン大統領のイメージだ。

どうも、この「ジェフ・ギャノン事件」において、リベラル・エスタブリッシュメントエスタブリッシュを強調したい)が行った「攻撃」は、気持ちが良いものではない。ここには、「○○のくせに」という「見下し」が感じられるからだ。「その語られかた」には大いに疑問を覚える。それは「そのやり方」が、結局「弱い立場の人」を利用し、スケープゴートにし、さらに「弱い立場」へと押し込めるものでしかないからだ。性的指向を暴き、それをスキャンダラスに「語るその行為」は、<警告/脅し>として「機能している」からだ。

というより、僕が問題にしたいのは、「そういった効果」を「予め知っていながら」、あえて、同性愛である人物を<犠牲>にしているのではないのかということだ。すなわち<犠牲>にしても「構わない」と思っている傲慢な<態度>が透かし見えることだ。同性愛に関する「負の歴史」を<引用>して、敵対者に対する「政治的な効果」を狙っていることが透かし見えることだ。

個人を「資格付け」、「ラベリング」しているのは、いったい誰か。
実際、そのニュースは、何を伝えているのか。どういった「反応」を引き出しているのか。

そういえば、大統領選TV討論で民主党ジョン・ケリー候補が、同性愛の議論において、ディック・チェイニーの娘でレズビアンのメアリー・チェイニーを「名指しした」ことを思い出した。
「思いやりのある保守主義」が偽善ならば、「思いやりのないリベラル」は最悪だ。

そしていったい誰の(ゲイであるロイ・コーンに対する)ホモフォビックな文句がここでは伝えられているだろう。その文句を再現することを選んだ『タイムズ』の声でではない、左翼でマッカーシズムの犠牲者だった女性、リリアン・ヘルマンの声でだ。そのことによって権威ある『タイムズ』はコーンをあたかも対称的な(「逆マッカーシズム」)雌犬同士が、髪の引っ張りあいの喧嘩をしているかのように、提示することができるのである。ちょうど黒人の反ユダヤ主義ユダヤ人の人種差別主義が、メディアがハイライトして書き立てるのを好む対象であるのと同じだ。
なぜならそれらは、白人でプロテスタントである人の特権が、通常通りに作用し続けられるからであり、それと同じように、ホモフォビックな強制がクローゼットの中のゲイによって行われていたと曝露することは、ストレートということになっている公衆にとっては、驚くほど甘美な味がするというわけだ。


イヴ・コゾフスキー・セジウィック『クローゼットの認識論』(外岡尚美訳、青土社

敵対性という《現実的なもの》を象徴的対立(へのその翻訳)から永遠に切り離す亀裂は、この翻訳にともなって現れる剰余によって明らかになる。たとえば階級的敵対性を、実体としての階級間、既存の社会集団間(ブルジョワジー対労働者階級)の対立に翻訳したとたん、構造的な理由によって、この対立にはまらない第三の要素となる剰余がつねにあらわれる。
(中略)
敵対性という《現実的なもの》の象徴的/構造的表現は、つねに三位一体であるとすらいいたくなる。たとえば今日、階級的敵対性は、社会的差異の構成のなかでは、「上層階級」(管理職、政治的知的エリート)「中産階級」そしてどの区分にも入らない「下層階級」(移民労働者、ホームレス……)という三項からなっているようにみえる。


スラヴォイ・ジジェク『偶然性、ヘゲモニー、普遍性』(竹村和子+村山敏勝訳、青土社

通りで通行人に呼びかける警官は、反復される慣習の力によって、その警呼をおこなうことができる。これは警官がおこなう発話行為の一つだが、その行為の時間は、当の発言を超えたものとなっている。ある意味で警官は、警呼という慣習を引用しているのであり、発話者とは無関係の発言に参与している。このような行為が「機能する」理由は、一つには、発話行為が引用されるものであること、つまり言表を超え、言表の瞬間を可能にさせる歴史性をもつからである。


ジュディス・バトラー『触発する言葉』(竹村和子訳、岩波書店

語りうるものと語りえないものを区別する境目が、社会的なものについての現在の境界を作っている。ではもしも同性愛を語る言葉が、それ自身の抑圧した沈殿した歴史を伝えるのでなければ、その言葉を発しても、軽蔑や中傷や、さらには人を不快にさせるものにはならないのか。この意味でその言葉が「行為」となるのは、まさにその言葉の発話不可能性が社会的なものの境界を定めているからである。


ジュディス・バトラー『触発する言葉』