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ネオコンの論理、力と弱さ

ネオコンの論理

ネオコンの論理

アメリ新保守主義ネオコン)を代表する論客ロバート・ケーガンの「力への意思」。激烈なヨーロッパ批判の書である。
ケーガンが指摘するアメリカとヨーロッパの差は一つだけ。すなわち力=軍事力の格差だけだ。この「力の大小」が、すべてを決定する。

アメリカは弱い国だったとき、間接的な方法で目標を達成する戦略、弱者の戦略を採用していた。いまではアメリカは強力になり、強国の流儀で行動している。ヨーロッパの大国は強力だったとき、政治力と軍事力の栄光を信じていた。いまでは、ヨーロッパは弱いものの立場から世界を見ている。見方が大きく変わったことで、当然ながら、戦略的な判断が変わり、脅威に対する評価と脅威に対処する適切な手段に関する評価が変わり、国益に関する計算が変わり、国際法と国際機関の価値と意義に関する見方が変わった。

ヨーロッパは「脅威」に対する「許容度が高い」──なぜ、悪辣なイラクフセイン政権に寛容なのか。それは、ヨーロッパが「弱い」からだ。
「弱者」は「問題解決」の能力を有していない。だから脅威への許容度が高い。さらに脅威の存在すらも否定する場合も考えられる。

ケーガンはここで、ナチスドイツに対する英仏の「宥和政策の失敗」という「事例」を提出する。弱体した英仏は、その弱さゆえ、「宥和政策」を取るしかなかった。「宥和政策」の「恩恵」を受けた第三帝国は、その間、着々と国力を増していく。英仏がヒトラー・ドイツに宣戦布告をしたときには、ドイツの軍事力は、すでに英仏を凌駕していた。この「教訓」を忘れるべきではない、と。

ケーガンは冷徹に論を進めていく。説得力がある。そのプレゼンの上手さには惚れ惚れする。彼はヨーロッパの「弱点」を巧みに突いてくる。ヨーロッパのアメリカに対する批判は、そっくりとヨーロッパ自身へと向けられる──「人権と自由」の「押し売り」こそは、フランス革命政府とナポレオンが目指したものではなかったか。

ヨーロッパはカントの『永遠の平和のために』の<理想>へと向かっている。一方、アメリカはホッブズの『リバイアサン』の「万人の万人に対する戦いの世界」を<現実>に生きている。その思考/戦略の差は、軍事力の強弱に起因している。
重要なのは、このアメリカとヨーロッパの「差」は、文化的なものや国の性格によるものではない。繰り返すが、それは単純に「強さと弱さ」の「差」なのだ。