HODGE'S PARROT

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中二階からの眼差し、性交したゴカイ

やおい論」において、「やおい」を「少年愛」と近しい<位置>におくロジックがときどき見られるが、しかし「<その>少年愛なるもの」は、誰がどのように定義したものなんだろうか。

イデオロギーにおいて「知らない主体」がとる形の一つが、われわれの腐敗した文明にまだ汚染されていない世界に住む「高貴な野蛮人」という神話である。ここでは文明化された西洋人が典型的な強迫神経症の経済に従う──われわれはどんな犠牲を払っても「高貴な野蛮人」を無知の状態に保ち、われわれの堕落した知識に触れさせてはならない、さもないと彼らの幸福な生活が崩壊してしまう。


スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房

ジジェクは、「知らないはずの主体」が取る「保護意識」の欺瞞をオルダス・ハックスリーの『滑稽な海賊』を引いて説明する。

ハックスレーはその中で、イギリス人が、古い伝統を守り、われわれの生き方の圧力に抵抗するインド人の知恵を賞賛し、下品な物質主義と功利主義に毒されたわれわれには手の届かない、彼らの底知れぬ精神的な深みを高く評価するさまを描いている。だが、耐えがたい不安と反感を掻き立てるのは、われわれの知識と技術にわれわれ以上に熟達するインド人である。要するにわれわれはすでにインド人の中に「根源的他者性」を認めているのである。真の恐慌を起こすのは、インド人の過剰な類似、すなわち彼らが「われわれよりもわれわれらしくなる」点である


スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』

この「人種差別的視線」は、巧妙に「毒」が薄められている。まず、自分たちを「被害者」の地位におく。そして、一見、相手を<賞賛>するような手筈を整える。
しかし、<彼ら>が<自分たち>と<同じレベル>であることは、決して認めない──認めてはいけない。「われわれよりもわれわれらしくなる」ことに気づくと、彼/彼女は、「恐慌」を引き起こすのだ。

このことは、高城響の「やおい論」にも伺える<視線>だ。
http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20041223#p1 で引用した続きが、以下である。

だが、普通の「男同士」の世界には、彼女たちは性が異なるので入れてもらえない。そこで彼女たちは、やおいに目をつけたのである。「男を愛する男」、男であっても「異端」であり、差別される「弱者」である存在。そして、「弱者」という点で彼女たちと「男を愛する男」は同類であり、共感できる存在なのである。
(中略)
作品のなかの「弱者」に感情移入することによって、少女たちはあたかも自分が「男になれた」ような満足感を味わう。


高城響 『「やおい」に群がる少女たち』(朝日新聞社ジェンダー・コレクション』

ここで、「視線/眼差し」の動きに注目したい。まず<彼女>は、「ペニス願望」を理論付けるような「自分より<上にいる普通の>男」を眼差す──憧れ、そうなりたいと夢想する。
次に、「<弱者である>同性愛の男」を眼差す──弱者として<見下ろし>、そして、共感する。
いったい、「異端」であり「弱者」であるという「男を愛する男」とは、誰が、どのように定義したものなのか。「根源的他者性」を構築しているのは、誰か。<男>を強者と弱者に二分して、その統合を、自分に都合よく、図る──これは一種の弁証法ではないか、言うまでもなく男根的な、「要求」を孕んだ。

スピルバーグ太陽の帝国』の)ジムは、中国人の日常生活の悲惨と混沌を、親のロールス・ロイルの窓を通して、いわば映画のような「投影」として、つまり自分自身の現実とはまったく連続していない虚構的な体験として、眺める。その壁が崩れたとき、すなわち、それまでは近づかずにいた忌まわしい悲惨な世界の中へと投げ込まれたとき、生存の問題が始まる。ジムは最初、この現実喪失、この<現実界>との遭遇にたいして、ほとんど無意識に、象徴化の初歩的な「男根的」身振りを繰り返す。すなわち自分のまったくの無能性を全能性へと逆転し、<現実界>の闖入の根本的責任は自分自身にあると考える。


スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳、青土社

さらに上記の「やおい論」では、「やおい」と「耽美」を区別する。「耽美」の原点は「少女たちの心理に自らの性からの逃避という心理作用が働いている」

女という自己の性への嫌忌。「自分=女は美しくない」という観点から始まって、「では美しいものは何か。それは少年、とりわけ美少年であり、彼は男性に愛されてしかるべきである。美少年はその資格をもっている」というところから、耽美は生まれている。愛しあう二人がともに男でなければ、成立し得ないのだ。


高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

この説明を読んで、どうして「やおい」と「耽美」が区別されるのかが、わからない。「女という自己の性への嫌忌」は、「やおい」の説明にもあった「ペニス願望」とどう違うのだろうか。「自分にはペニス(美)がない」→「少年にはペニス(美)がある」。
要するに、「耽美」と呼ぼうが、「ボーイズラブ」と呼ぼうが、それらは、基本的に、「同じ構造」ではないのか──その「構造自体」は「やおい」に「毛の生えた」程度のものではないのか?
何より、<美>が問題ならば、「美少女」でも良いはずだ──ここには、レズビアン(同性愛)の視点が排除されている。もちろん、「美少年」ならば、「(大人の)美女」に愛されても良いはずだ。

それより気になるのは、「耽美」にせよ「美少年」にせよ<美>という言葉の頻出だ。「美少年/美少女」に<美>があるのは、それこそトートロジーである。高城の説明によると、男性に愛されるのは「美少年」であるという<資格>を有するらしい──いったい誰がその<資格>を<資格付ける>んだ。
とするならば、「耽美/やおい」とは、そして「やおい論」における「少年愛」とは、現実社会(リアル)の恋愛市場における「ヒエラルキー」を──コンプレックスを──反映/回帰していると言えないだろうか。

己を補完してくれるものの探求という(プラトン『饗宴』の)アリストファネスの神話は、悲劇的で魅惑的なイメージを織り上げています。この神話は、生命体が愛において求めているのは、他者である、性的半身であると述べています。愛の神秘のこの神話的表現に代えて、精神分析体験は、性的補完物の探求とは違う主体による探求を置きます。それは、自分から永久に失われてしまった部分の探求です。


ジャック・ラカン精神分析の四基礎概念』(岩波書店

やおい論」は、あくまでも後付けの──象徴界における──説明である。「欲望の弁証法」に則った<解釈>である。では、「やおい<そのもの>」はどうなのか。それは「欲動」なのではないか、純粋な。<正常性>を主張/獲得する<必然>すらないような。

精神分析では、「欲望」と「欲動」は区別される。ジジェクの明快な区別を参照しよう。

欲動とはまさに、欲望の弁証法に取り込まれない、弁証法化に抵抗する要求にほかならない。要求はほとんどつねに弁証法的媒体を含んでいる。われわれは何かを要求する。だが、われわれがこの要求を通じて真に目指しているものは別の何かであり、時にはその要求そのものの否定であることすらある。何かを要求するたびに、かならず一つの疑問が生じる。「私はこれを要求する。だが、それによって本当は何を求めているのか」。反対に、欲動はある特定の要求に固執する。弁証法的策略には絶対に引っ掛からない「機械的」なしつこさなのである。私は何かを要求する、そして最後までそれに固執する、というわけである。


スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る』