HODGE'S PARROT

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ジェンダーフリーを曲解する人、クイアポリティックスを曲解する人

ジェンダーフリーの議論において、反ジェンフリ側は、「男女同室の着替え」や「ひな祭り等の行事の否定」などを、まことしやかに唱える、とされる。このことは<心ある>「保守派」にとってさえも噴飯ものであることは言うまでもない。しかし、この「イメージ戦略」は、十分功を奏した。

ではクイア理論を曲解する人はどういう論旨を取るのか。

私は豆腐も納豆も好きですが、豆腐は木綿が、納豆はひきわりではない小粒の国産の余りニオイの強くないものが、いいです。あぶらげはキライです。禿げも髭も別にどうでもいいです。ペニスにもヴァギナにも肌の色にも首や指の長さにも執着はありません。縛るのは不器用なのがばれそうで嫌で、縛られるのはイメージがわきません。嗜好は色々あり、中にはもう何十年単位で付き合っている嗜好もありますが、生まれつきかどうか自信はなく、変わる可能性もなくはなく、指向はあるのかどうか分かりません。


FemTumYumより
http://tummygirl.exblog.jp/1211383/

実は、僕は、ジェンダーフリーにもクイア理論にもそれほど「信望」はしていない。しかし「やおい論」と同様、同性愛が勝手に都合よく<利用>されることに我慢がならない。クイア理論については『フーコーとクイア理論』のレビュー(http://w_passage.at.infoseek.co.jp/book/i-nonfiction18.htm#01)で書いたように、問題とされるのは「不公平な二項対立」であり、同性愛であることが、いかに社会の中で──不利に──機能しているか、だ。

いったい、「豆腐」が好きかどうかで、ある人たちが「犯罪」とされ、逮捕され、殺されたことがあるのだろうか。「禿げ」や「髭」の<嗜好>で、ナチス絶滅収容所で虐殺されたことがあるのか。精神分析によって「病者」とされ、<矯正>の対象とされ、金を巻き上げられ、挙句の果てに自殺に追い込まれたことがあるのだろうか。ヘイトクライムの問題は、いったいどう考えているのだろうか。

「豆腐」や「禿げ」のレトリックを出すなら、僕は、「人種」「民族」、あるいは「同和差別」というレトリックを持ち出したい。

逆に「生まれつき」であれば、生まれつきであって自分にはどうしようもない属性を根拠に差別されるいわれはない、ということになる。もちろん、宗教的保守派からすれば、「生まれつき」であるということはそのまま「神の創造の結果」ということになるわけで、同性愛者を非難すればその創造者を非難するに等しいことになってしまうから、これは到底受け入れることはできない、ということでも、ある。

いったい、人種という「生まれつき」の差別が解消されたのは(解消されたのか?)、いつなんだ。「神の創造の結果」である黒人やユダヤ人が隷属させされた「事実」は、「なかった」のか?
ほとんどの「差別」は「生まれつき」から「生まれたもの」ではないのか? 
黒人と白人の「間」に生まれた子供が、白人ではなくて、黒人に<分類>されたのは、なぜか。ナチスが問題にしたのは、それこそ「生まれつき」ではなかったか?
だいだい日本の「同和・部落差別」なんてものは、「生まれ」以外に、いったい、どんな差別に値する「差異」があるんだ?

いわゆる「保守派」が「セクシュアリティは選択の結果だ」と言い、いわゆる「リベラル」が「セクシュアリティは生まれつきだ」と言う、ある種奇妙な構図ができあがっている。

これが「奇妙な構図」だろうか。かつて北欧の「リベラル政権」(社会民主)が、同性愛者に対し「医学的去勢」を行ったのは、「生まれつき」を問題にしたからではないのか。「優生学」を推奨したのは、「生まれつき」を問題にしたリベラル政権だ。「優生学」を非人道的として非難したのはカトリック教会=保守派だ。

さらに言うなら、ここで読み取れるのは「宗教的保守派」の主張だけでなく、政治・経済体制の「選択」との絡みではないか。すなわち「ネオリベラリズム」である。「セクシュアリティは選択の結果だ」ということは、それはつまり、「自己決定」「自己責任」というネオリベラリズムの枠組みに回収されることになる。

ここでは、「アイデンティティ」と「欲望」とがごちゃごちゃになっているということが問題をややこしくしているのだが(同性に惹かれるからと言ってゲイ・レズビアンというアイデンティティを持つというわけではない。ゲイ・レズビアンという「アイデンティティ」は、どこかに選択の要素、選択と言うのに語弊があるのならば、意識的な引き受けの要素がなければ、成立しないだろう)、あくまでも問題を「欲望」、つまり、「自分は<同性>に惹かれるのか<異性>に惹かれるのか」というところに絞ったとしても、その欲望が「生まれつき」なのかどうかが、それ程重要なことだろうか。

ロイ・コーンはなぜ、「男とファックするヘテロ」という「高度に論理倒錯した」政治的アイデンティティを<採用>せざるを得なかったのか。
また、「生まれつき」が重要でないなら、「在日外国人」の問題はどうなるのか。歴史的事実を無視して、日本にいる「外国人」を、すべからく「外国人」としての「アイデンンティティ」の<選択>を迫る「すっきりした議論」が良いことなのか。「問題がややこしくなる」のは、「当事者」だけの「選択の問題」に帰せないからなのではないか。歴史的・社会的に「構築」された「生まれつき」が議論にされなければならないはずだ。
だいたい、「私は私である」という「アイデンティティ」は、「私は私で<ありたい>」という「欲望」の「契機」があるのではないか。
「たった一つの、私のものではない言葉」を<認識>する人は、「認識せざるを得ない状況」に追い込まれた人だ。服や靴を「選ぶ」ように、お気楽に<選択>したものではない。

けれどもそれが「同性愛は/異性愛は/セクシュアリティは、生まれつきのものだ」という形になってしまうと、それは、「自分は生まれつきだから本当の同性愛者/異性愛者だ」「選択の結果としての同性愛/異性愛はうんさんくさい(だからまあ差別されても、ね)」といった、分断化とゲットー化、あるいは逆転したエリート主義につながる可能性がある。

生まれつきの同性愛と、選択としての同性愛。そもそも、それを「決定」するのは、いったい「誰」なんだ。当人の「自己申告」以外にありえない。チェイニーの娘の例は、「生まれつきのレズビアン」であることを「自己申告」したのに、その「自己申告」が「否定」されることがありうること、それが<承認>されないことが「問題」なのではないか。

実は、同じ理由で、私は「性的指向」という言葉の流通の仕方にも、すっきりしないものを感じている。

ならば、「異性愛」というものを「同性愛」という「言葉」抜きで、どう表現するのか。「同性愛」が「異性愛」の「代補」であるからこそ、「異性愛」が可視化されるのではないか。「正常」を定義するのに、まず「異常」を定義しなくては、「正常」は存在しない/できない。

指向ならいいけど、嗜好ではいけないのだろうか。
生まれつきのものは正しいけれど、後から身に着けたものは正しくないのか。

では、「異性愛」は「嗜好」なのか。しかし、「異性愛」が「嗜好」に「成り下がった」とき、まさしくそのときに、今度は「良い嗜好」と「悪い嗜好」が弁別されるのではないか。

そして、嗜好であれば、それが生まれつきか後から学んだものかそれとも意図的に選択したものか、全ての嗜好について同一の答えが出るわけがない。子供の頃は受け付けなかったのにある日突然好きになる身体感覚もあるだろうし、子供の頃に駄目だった音楽でいつまでも好きになれないものというのもあるし、あるいは子供の頃キライだったけれども頑張って身につけているうちにいつか好きになってしまう色だって、あるかもしれない。キライじゃなかったけれどもある日なんらかの理由で食べるのをやめるものだって、あるだろう。

これは、「精神分析」がかつて行った「矯正/治療」を「復活」させないだろうか。「多形倒錯」という愚劣な理論を補強しないだろうか。「全ての嗜好について<非同一>な答え」が、実は、エディプス的「<同一>の答え」に、一挙に、<反転>しないだろうか。そのとき不可視で特権的な地位を謳歌するのは「異性愛」<だけ>なのではないか。

けれども、そのような現状への異議申し立ては、特定の嗜好を「指向」として特権化する方向よりは、特定の嗜好だけが差別の根拠とされうる制度を批判する方向を、とるべきではないだろうか。「これはあのような嗜好とは違うのだから尊重しろ(ああいう嗜好はまあ個人の勝手だからどうでもいい)」という形をとるよりは「これはあのような嗜好と同じなのだから文句を言うな(ああいう嗜好に文句をつけていないだろう)」という形をとる方が、良くはないだろうか

存在論」ではなくて、「認識論」ということか? しかし「あのような嗜好」と発話するとき、「あのような嗜好」は、つねに・すでに「規範」として前提されていなければならない。そして規範の側にいる「あのような嗜好」それ自体は、実は・かつて「このような嗜好」と違うことで、特権化されたのではないか。

だいたい、このセンテンスには「飛躍」がある。
”特定の嗜好を「指向」として特権化する方向よりは……”
同性愛/異性愛が、そもそも(ブッシュ発言が「正解」であったように)「生まれつき」か「選択」か<わからない>段階で、どうして、”嗜好が指向に「特権化」する方向”なんて言えるんだ(何より、ここには、<嗜好>の「特権化」が感じられる)。

言うまでもなく「特権化」できるのは、それが<指向>だからだ。<嗜好>ではないからだ。「生まれつき」だからだ。前半のブッシュに対するケリー発言に対しては、このように意見されていたはずだ。

同性愛は生まれつきのものだ」という主張自体、「同性愛なんて、勝手にやっていることだろう/変えることができるだろう、だから差別されたって文句を言うな」という主張への反論として、唱えられてきたものだ。実際のところ、同性愛にしたって異性愛にしたって、どんなセクシュアリティにしたって、それが必ず「生まれつき」のものなのかどうかは、分かっていないのが現状だろう

だから<必ず「生まれつき」のもの>を<指向>と呼んでいるのではないか。それだけのことだ。「分かっていないのは」、ブッシュではなくて、「あなた」だ。

「これは変態嗜好とは違うのだから差別をするな」というよりも「これもあれも、そしてあんた達のそれも、全部変態嗜好なのだから、これだけを変態嗜好だと決め付けて差別をするな」という方が、効果的ではないだろうか。クイア・ムーブメントというのは、基本的にはそういうことではなかったのだろうか。

そうだろうか。これでは「クイア・ムーブメント」というのは、異性愛の「否定神学」に手を貸しているだけではないか。これでも<ない>、あれでも<ない>、むろん同性愛でも<ない>。すなわち、すべての「嗜好」を「羅列/有徴」して、そしてその「否定」によってしか「表現」されないもの……それこそ異性愛という「(不可視の/不可侵の)神の地位」を補償する。

それとも、もしかして、「性唯幻論」を言いたいのか。

そして、さらにはっきりしているのは、受けつけないもの(あるいは受け付ける気がないもの)を無理やり押し付けられたり、根拠もなくその嗜好を制限されたり、それが原因で差別されたりするのは、どう考えても正しくない、ということだ。

「根拠もなくその嗜好が制限」されることが、あるだろうか。「根拠」があるから、「分類」が起こる。根拠=分類だ。「分類」は「差別・化」のことだ。そして、「差別の理由」は、聖書からヒューマニズム、知、生─権力の「名において」正統化/正当化される。「根拠」はいくらでも「産出」される。

指向はあるのかどうか分かりません

この議論は、そもそもセクシュアリティの「デフォルト」が「異性愛」であるから生じる問題なのではないか。「省略値」を「異性愛」に「設定する権力/横暴」にこそ、クイア・スタディーズが「問題」にしているのではないか。


そして、「問題」は次のことにつきる。
SMは「嗜好」である。
よって、「異性愛のSM」という「表現」は「意味」を為す。
もし、「同性愛」が「嗜好」ならば、
異性愛の同性愛」という「表現」も可能だ。これは「異性愛のSM」と同じ文型だ。しかしこれは、いったい、どういう「意味」を持つのか、だ。

僕は「同性愛」を都合よく<利用>する、お気楽な「フェミニズム」は大嫌いだ。
そして、クイア理論も含めて、僕が疑問に思うのは、こういった「理論(偏重)」が、実生活者の<経済性>の問題に、いかに「寄与」しているかだ。様々な<エイジェンシー>を見立て、「シンボリック」な<モデル>で議論を行っているが、それが通用するのは、大学の教室の中だけだ。はっきり言えば、視野が狭い。
SMの<嗜好>を持つ<男女カップル>が、アパートやマンションを借りるのは、用意だ。どんな<嗜好>を持っていても<男女カップル>ならば<結婚>ができる。税法上の優遇も受けられる。年金や保険もだ。養子も取れる──たとえロリコンの<嗜好>があっても、<男女カップル>ならば。
このことの「意味」が、本当に、わかっているのか?