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中村真一郎『小説家ヘンリー・ジェイムズ』

小説家ヘンリー・ジェイムズ

小説家ヘンリー・ジェイムズ

ヘンリー・ジェイムズについて、その創作技法の点で、私が話し合うことのできた唯一の相手は、少年時代の仲間の福永武彦だった。私たちの間で常に問題となったのは、プルースト第一人称と、ヘンリー・ジェイムズ視点との関係についてだった。そしてその手法の、新しい現実性についてだった。


主人公の目だけを通して見た外界と、同じ主人公の内面での想像のイメージとだけから構成される小説は、私たちが実際にこの世に生きている意識の状態にそっくりであって、従来の客観的レアリスムの、サルトルのいわゆる作家が「神の位置にいる」描写は、それに比べると虚偽である、ということ、それに私たちが学生時代から最も小説の方法の上で参考となった『贋金作り』のジードの人称との関係など。



p.12


小説家 中村真一郎によるヘンリー・ジェイムズについての熱の籠ったエッセイ。最初期の短編から最晩年の未完の作品までを網羅し、「作家論」としてジェイムズ作品を概観できる。のみならず、ジェイムズの「小説家として」の創作技法を微に入り細に穿ち考察することによって、小説とは何か、という視点を常に問題とする「小説論」としても、多く与えてくれる。

例えば、後期の三大作の一つ『使者たち』では、プルーストの『失われた時を求めて』と比較し、ジェイムズのそのあまりにも美しい独特の情景は、プルーストでは主人公マルセルの個人的歴史のなかだけのもの──記憶の森の奥の幻影の美しさ──であるとすれば、

ジェイムズの風景は、特殊なストレイザーという個人というより、アメリカから中年に至ってパリへ渡って来て、はじめて「生きる喜び」を発見したというシチュエーションにある全ての人にとってそうであるに相違ない、つまりそのような境遇の人物にとって必然的で共通な、客観性を持ったヴィジョンだということになる。



p.234

ジェイムズの作品では、主人公の眼を借りて「現実に眼前に、実際に出現した」という視覚的な新鮮さを持っている。プルーストのマルセルの情景は彼の内部から眺められているために、未知の影の謎のなかに浮ぶ。ジェイムズのストレイザーの情景は、彼の捉えたものを外形的に、彼の内面の謎からは切り離して絵のように描き出している。
そこから、中村真一郎は、プルーストは「フロイト的小説」であるのに対し、ジェイムズの場合は「反フロイト小説」と考えられることになる、と述べる──『ヘンリー・ジェイムズ・円熟期の研究』の著者、F.O.マシーセンも同様の結論を出しているという。

ここで私はジェイムズが『フィクションの芸術(技法、アート)』という評論のなかで、「私の見るかぎり、画家の芸術(技法)と小説家の芸術(技法)との類似は完全である」と言い、又、「心理学的な推理は、見事に絵画的な対象である」と述べていることを、意味深く思い出す。小説を絵画と等質のものに置くという、この類比的(アナロジー)な考え方は、寧ろ小説家のなかでは例外なのである。



p.235

また、『黄金の盃』では、以下のようにジェイムズの技法/アートを指摘する。

ところで、しかしジェイムズは師フローベールの「純粋客観主義」に盲従したのではなかった。彼はこの方法のなかに主要人物の内面をより自由に描きだす可能性を求めて、「視点」の見地を導入することに思い付く。
それは作中の一人物の視点から事件を眺めながら、それを客観的に描写する手法であって、その主人公も三人称で描かれるけれども、小説のなかで人物の主観、その思想なり感情なり感覚的反応なり、要するに内面を覗きこまれ得るのは、作者にとってその主人公だけなのである。


ということは、現実社会において、丁度、私たちが生きている時に、認識できるのは私たち自身の内面だけで、他人のそれは相手の発言や行為から想像するだけである、という人間存在の社会内の在り方の構造そのものに、小説の構造が重なる、ということである。



p.241-242

金色の盃〈上〉 (講談社文芸文庫)

金色の盃〈上〉 (講談社文芸文庫)



中村真一郎は、小説家として、小説創作のうえで方法的に最も深い影響を受けたプルーストから遡って、ヘンリー・ジェイムズに到達したという。したがってまず到達したジェイムズ作品とは複雑精緻な後期作であり、その「ジェイムズ像」を保持したまま、初期作品から読み返していく作業を、この本のために行った──それは前期の比較的平易な初期作品から後期に移るパターン、つまり英米文学研究者たちの「歴史ある」ジェイムズ紹介とは逆を行っているものである。
そこには、ジェイムズがジェイムズとなるための「幾多のアンチ・ジェイムズ」が存在したという発見があった。それはスリルに満ちた仕事だったと、著者は述べる。

生まれ故郷の環境というような地方的なものだけに頼って、その気質を利用して、特異性の魅力で作家となった者とは、彼は家庭教育のうえでも、個人の趣味の上でも異なっていた。それが、ある種の土着好みの──日本に多い──読者には、彼の作品が方法倒れにも、観念的にも、ブキッシュにも、現実性の稀薄さにも感じられるところだろう。

私は彼の反対者のこれらの非難の幾分かに同感しながら、もしそれが欠点だとしたら、私はその欠点そのものにも皮肉な魅力を覚える者であると、故意に口を滑らせておこう。



p.72


「小説家」中村真一郎による印象的な解読を挙げておこう。『カサマシマ公妃』(The Princess Casamassima)。アナーキズムの地下活動を扱いながら、その政治的「曖昧さ」によって「味方をも敵をも怒らせるに足る浅薄さ」として「失敗した社会小説」である。が、しかし、「小説そのもの」としては、断じて、否である、と小説家は論じる。

『カサマシマ公爵夫人』の主人公はハイアシンスというロンドンの若く貧しい製本屋の職人。このハイアシンスが、アメリカ生まれでイタリア貴族と結婚したプリンセス・カサマシマと遭遇する。プリンセス・カサマシマは、貴族でありながら、実はアナーキストの革命運動を支援している人物。プリンセスとの出会いにより、ハイアシンスは革命地下活動に加わる。しかし一方、貴族社会との出会いよって、貧しい若者は、「ヨーロッパの文化」を知ってしまう──芸術に目覚めてしまう。主人公は、その美に打ちのめされる。

彼(ハイアシンス)はパリで「生きることの甘美さ」、フランス語で言う douceur de vivre に目覚める。それから、ヴェネツィアでは、あの町の「魔法」にかかる。彼はそうした人類の作りだした稀有の美のまえで、精神の「地平の拡がり」を衝動的に意識すると同時に、労働意欲の喪失、怠けることの愉しさが、おのれのうちに生まれてくるのに気が付いて行く。



p.107

ハイアシンスは、政治的使命・革命的理念と美・芸術との間に引き裂かれていく。

そして主人公は、このヨーロッパの表面を埋めつくしている「芸術の記念塔」、「文明の建造物全体」が、「幸福な少数者」によって作られたもの、「過去の専制政治や残虐行為や排他主義や独占や強欲の上に築かれたもの」であり、革命というものは、そうした財宝を、全員が少しずつ分配するという結果をしか招かない、という考えを持つように変って行く。「再分配の観念の底にある、そうした敵意にみちた(階級的)嫉妬心には、大きな恐怖を感じます」。


そうして彼等の革命運動を背後から操っている、ドイツ人の政治指導者などは、この比類のない、呪わしい、古いヴェネツィアの町を見ても何の感動も受けないだろう。サン・マルコ広場の前の統領宮殿のヴェネローゼの天井画をも、細かく切り裂いて、人々に分配してしまおうとするだろう、と「冷笑的な告白」を、公妃に書き送る。
この「貧民街に興味を失い」、「働くことに意力をなくした」新しい主人公を見て、彼の古い仲間は「外国の影響で堕落した」と断罪する。


そうして、主人公のこの新たな人格形成は、革命家にとっては永久に困難な、「歴史を超越した美の存在」という、かつてマルクスギリシャ美術に触れて問題にしたアポリアに逢着し、そして彼にある公爵の暗殺命令が、革命本部から拳銃と一緒にとどけられた時、彼はその拳銃によって、自らの生命を絶つという手段によって、この難問から逃避する。



p.107-108

The Princess Casamassima (Penguin Classics)

The Princess Casamassima (Penguin Classics)

ちなみにこのペンギン版の挿画は、僕の大好きな画家の一人ジョン・シンガー・サージェントの『レディー・アグニュー』だ。



そして未完成に終わった最晩年の『象牙の塔』。ジェイムズの特異・得意な技法を的確・鮮烈に示される。

普通、小説においては、その主人公の位置は、社会的身分や職業、年齢や家庭環境などの数行の紹介で済んでしまい、作者と読者とは了解し合って、あとは小説の進展のなかで、その人物像の明確化を期待することになる。


ところが、ジェイムズはこの小説で、主人公たち数人ひとりひとりを、その社会のなかで座り心地、自分の呼吸している空気の匂い、まわりから感じる感覚、雰囲気、あるいは自分の存在の重さ加減というような、従来の小説では全く描かれることがなかったけれども、実際に社会に生きている各人にとっては、まことに本質的である微妙な皮膚感覚のようなものを、できるだけ精密に描いてみようとした。


(中略)

開巻数頁にわたって、女主人公のひとりがやがて小説の舞台となるべき邸の「門」に、通りを横切って入っていく際の、心理的抵抗が、驚くべき顕微鏡的手法で描かれているのに、読者はまず度肝を抜かれてしまう。



p.250

さらに小説家として中村真一郎は、「小説家ヘンリー・ジェイムズ」について、以下のような賛辞を、感嘆を交え、述べる。

しかし、『象牙の塔』の人物たちは、アミーバのような存在で、外界の水のような空気のなかに半ば輪郭を溶け合わせながら、触覚を伸ばしたり縮めたり、触れ合わせたり引っこめたりしていて、個性の限界がない
そのような人物相互のあいだに、どうしてドラマを展開させられようか。


(中略)

そうして、遂に小説形式を破壊するまでに、その人間認識の方法を推し進めて終わったというのは、ひとりの小説家にとって、何という矛盾した光栄であろうか。
本来、人間認識の道具として発明された小説形式を、その認識の冒険を極端にまで試みることで、形式そのものを不能にしてしまったというのは、天才のみ許された過失だろう。──



p.252-253

ヘンリー・ジェイムズ作品集 (6) 象牙の塔 過去の感覚

ヘンリー・ジェイムズ作品集 (6) 象牙の塔 過去の感覚

The Ivory Tower (New York Review Books Classics)

The Ivory Tower (New York Review Books Classics)


このドクロが印象的な『象牙の塔』の原著の序文を書いている Alan Hollinghurst は、『The Line of Beauty』で2004年のブッカー賞を受賞したアラン・ホリングハーストだろう。言うまでもなく、『The Line of Beauty』並びに翻訳のある『Swimming-pool Library/スイミングプール・ライブラリー』は同性愛を扱ったものである。そういえば、『ヘンリー・ジェイムズ・円熟期の研究』のマシーセンもゲイであった。

The Line of Beauty

The Line of Beauty

The Swimming-Pool Library

The Swimming-Pool Library

スイミングプール・ライブラリー (Hayakawa novels)

スイミングプール・ライブラリー (Hayakawa novels)

また、『シュロップシャーの若者』で有名な詩人A・E・ハウズマン(A. E. Housman)の編集をしているのも気になるところだ。

A. E. Housman (Poet to Poet)

A. E. Housman (Poet to Poet)

Google Book Search でヘンリー・ジェイムズ

ジェイムズ関係でこんなニュース記事があった。

Google、著作権消滅書籍の全文検索スタート [ITmedia]

Googleは11月3日、書籍検索プロジェクトGoogle Print*1で、著作権が消滅した書籍の全文検索サービス提供開始を発表した。同プロジェクトをめぐっては出版業界からの反発が強まっているが、Googleでは当面、著作権切れの書籍を中心として、今後さらに多くの作品を公開していく方針。


 Googleはミシガン、スタンフォードハーバード大学およびニューヨーク公立図書館と協力して、著作権が消滅した作品や公文書などの全文スキャンを進めていた。


 今回第一弾として公開されたのは、協力図書館に収蔵されている歴史書や政府の公文書、米国の小説家ヘンリー・ジェイムズの作品など。全ページがGoogle Printで検索対象となり、各ページの画像を保存することもできる。

で、Google Book Search で、検索した結果。


[Google公式ブログ/Official Google Blog]

*1:後に”Google Book Search”に変更