HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

「やおい」は異性愛の症候である

「女は男の症候である」というのは、後期ラカンの最も悪名高い「反フェミニズム的」テーゼのひとつだろう。しかし、われわれがこのテーゼをいかに読むべきかについては根本的な両義性がある。この両義性はラカン理論内部における症候の概念の変化を反映している。もし症候を、ラカンが一九五〇年代に定義したようなもの──暗号化されたメッセージ──として捉えるならば、もちろん女=症候は記号として、男の敗北の具体化としてあらわれ、男が「自分の欲望に負けた」という事実を証明するフロイトにいわせれば症候は妥協の産物である。主体は症候において、自分の欲望についての真理(彼が直視できなかった真理、彼が裏切った心理)を、暗号化された判読不能なメッセージとして受け取る。


スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』(鈴木晶訳、筑摩書房

「同性愛関係はない」異性愛物語=「やおい」が、とくに同性愛者を不快にさせるのは、<言語>を通じて──つまり象徴界の参入を経ることによって──語られる「やおい、について」である。つまり「やおい」<そのもの>ではなくて、「やおい論」においてである。そこでは、「社会規範(象徴界)」への<裏口入学>を果たすべく、同性愛者を侮蔑し、差別する「言説」を──意識的にせよ、無意識的にせよ──「担保」にする。ゲイ男性を貶めることによって、自らの<正常性>を主張/獲得する。
そう。その<裏口入学>への<賭金>が、現実(リアル)の同性愛者への差別・侮蔑という形で徴候される「卑劣な手段」なのである。

やおいに傾倒している少女に、『さぶ』などのまともな同性愛雑誌を見せてみればいい。100人中99人が、「いやっ! 気持ち悪いっ」と叫ぶだろう。その意味では、「男同士の愛」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。


高城響 『「やおい」に群がる少女たち』(朝日新聞社ジェンダー・コレクション』

このロジックは非常に明快である。もし「やおい」の<観客>の多くが女性ならば、メラニー・クライン流の「良い対象(乳房)、悪い対象(乳房)」の<選択>に相当するだろうし、クリステヴァのアブジェクト(おぞましきもの)のアクジェクション(棄却)を理論付ける。つまりエディプス・コンプレックスを通過した<主体>が、巧妙なタブー構築によって非合法対象(と看做される対象)を排除しようとするものなのだ──それによって<女児=彼女>は象徴界への参入を図る。

一方、このリアルな同性愛雑誌──というより、これはゲイ・ポルノだろう──を見せるという「行為」は、ジジェクの<対象a>の説明を敷衍するならば、「快感原則」の「閉じた回路」を狂わせ、無理やり「世界に眼を向けさせ」ることに相当するかもしれない。したがって、この「行為」こそが<現実(リアル)>に至らせる「操作」であり、「現実の同性愛雑誌」は<対象a>としての──余剰としての──機能を果たしている。

われわれが「(外的)現実」と呼ぶものは、「拒絶」という原初的行為によってみずからを作りあげる。すなわち主体はその内在的な自己妨害を「拒絶」し、欲動の対立の悪循環を、欲動の要求とそれに対立する現実の要求との「外的」対立へと「外在化」する。


スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ』

ただし、ここで留意しておきたいのは、「ゲイ・ポルノ」は、<ゲイ以上のもの>であるという認識だ。ポルノの世界は、むろん異性愛でもそうだが、<同性愛/異性愛以上のもの>を含んでいる。「リアルそのもの」の中にある、常に「余剰」を孕んだ「リアル以上のもの」。そして、高城は、どうやら「同性愛の現実」を「同性愛の過剰な現実であるポルノ」への移行を通して、自らの理論──何が<正常>で、何が<異常>であるかという理論──に必要な「拒絶反応」を導いているように思える。
ここにイデオロギーめいたもの、いや、イデオロギー<以上のもの>を感じる。


以下、こういった「やおい論/言説」から、遡及的に「やおい<そのもの>」が導きながら、「やおい論というもの」が果たしている<役割/イデオロギー>を考えてみたい。

ラカンが一九五〇年代に初めて排除の概念を導入したとき、それは、ある鍵的シニフィアン(クッションの綴り目、父─の─名)が象徴秩序から排除されるという特殊な現象──それが精神病の過程の引き金となる──を指していた。この段階では、排除は言語そのものに特有のものではなく、精神病現象の際立った特徴であった。そして、ラカンによるフロイトの再公式にしたがえば、<象徴界>(シンボリック)から排除されたものは、たとえば幻覚現象という形をとって、<現実界>(リアル)の中に回帰するのである。


スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳、河出書房新社

もっとも、単純に考えれば、「やおい論」が<象徴界>に位置するものなら、「やおい<そのもの>」は、<想像界>に位置していると思われる。それは前─エディプス期の出来事として<充足>している。そこにおいては、ファルス(男根)は男児にとってはペニスであるし、女児にとってはクリトリスである。
クリトリスという<ファルス>を持つ<主体>は、ナルシシズムの領域(想像界)で、自らの<欠如>を奪取すべく、攻撃的な闘争(レイプ)を繰り広げる──しかし、それは、あくまでデュアル(双数)な関係(カップリング)であることに留意しておきたい。
しかし、問題はなぜそれが「男同士」になるのか。容易にヒントを与えてくれるのは古典的なセクシュアリティの<フィクション>である。

……いまだに精神分析の教科書の解説に散在している、初期の理論の名残の一つは、幼児期の性欲の男根期の本質が自慰(マスターベーション)であり、そして去勢コンプレックスの本質が、去勢という罰による両親の(特に父親の)威嚇によって自慰が抑圧されることにあるとする概念である。また(去勢コンプレックスと不可分の定義である)女性の男根羨望を、少女が自慰という目的のためには女性の陰核(クリトリス)は男性の陰茎(ペニス)よりも劣っていると受けとるためであるとする説明もこれに関連している。


N・O・ブラウン『エロスとタナトス』(秋山さと子訳、竹内書店新社)

この「女性によるペニス羨望」は、上記の「やおい論」においても、そのものズバリ論じられている。

女性、特に少女のなかには、男に対する強い憧れがある。男の腕力、体力。男に与えられる社会的な地位や特権。さらに、ベッタリと密着したものになりがちな女同士の友人関係とは違う(ように見える)、カラッとした「男の友情」。隣の芝生は青い。少女たちはそれらに憧れ、自分もそうなりたいと夢想する。


高城響 『「やおい」に群がる少女たち』

もちろん、この「ペニス羨望」並びに「やおい論」は、あくまでも象徴秩序に則った後付の「説明」であることを忘れてはならない。「やおい」を<正常なもの>として偽装する方便だということを忘れてはならない。もっと言えば、「やおい論」は、ヒステリー的な主体的立場の欺瞞でしかない。