HODGE'S PARROT

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敵対性のエチカ

http://macska.org/index.php?p=49#more-49
早速のご返事ありがとうございます。
僕の方も、書き方がまずかったり、SMとの比較に不備があったことは認めます。しかし、僕が<本当に>、SMや「髭好き」との比較を行いたかったのは、男女のSM<指向者/嗜好者>には、結婚や社会保障が受けられる、という文脈です。同性カップルの場合は、SMを嗜好をもっている/いないに限らず、そうではない、ということです。

そのことから、まず同性/異性という二項に問題をフォーカスしました。この場合、現状、macskaさんの敵対的なレトリックを敷衍するならば、「男女のSMカップル」は、すでに・つねに「白人」だと思います。白人史上主義=強制異性愛において、ある程度の「地位」は、すでに「保証」されています。それが僕が取ったSMとの「比較」です。

ここまでの論旨で、僕が「名誉白人」の立場を目指すと非難される謂われは、ありますか?

そして、指向=生まれつき、という立場についてです。
僕がtummygirl さんに真先に、異論/危惧を投げかけたのは、性的指向が「選択」であると主張することです。
性的指向が生まれつきではない、という「説」が「定評」になったとき、つまり「選択可能」<でもある>となったとき、そのときに「矯正」というプロセスが働かないか。そして選択可能ならば、なぜ通常・現状の「リプロダクション」に寄与しない「同性愛を選択」するのかという議論に発展しないか、ということです。

実際僕の「自己申告」は、生まれつきです。しかし、マジョリティにとって、その「自己申告」は、きちんと「承認」されるのか、という危惧があります。そして、最近になってやっと認知されてきた同性愛者の法的認知が、無に帰されるのではないか、という不安もあります。
こういったことに対して、対抗措置として、同性愛者が「生まれ」を<より>強調したのは事実ですし、そして実際に多くの(全部ではないと言っておきますが)同性愛者が、意図して/選択して「同性愛者になった」わけではないのに、多くの差別を受けていると感じていると思います。

そのことを、素直に表明しただけなのに、tummygirlさんによると、それは「特権的」であるとし、そういった立場が「他の嗜好を抑圧する」とされました。

macskaさんに聞きたいと思います。「長身愛者<嗜好者>」は、その組み合わせが<男女>であったならば、その人たちは命の危険に曝されたことが、ありますか。それを苦に「自殺」をした人を知っていますか? ほんとうに「男女の長身愛<嗜好者>」と「同性愛者」が同じ<レベル>で議論されうると思っていますか?

tummygirlさんもmacskaさんも、どこに住んでいるのかわかりませんが、もし同性愛を禁止している国や地域で、同性愛者として「生まれた」ことを想定したことがありますか。あなたたちは、「選択できる」から、そのときは、「同性愛を<選択>しなくて、別の<嗜好>を<選択>すれば良い」と言うでしょう。

しかし実際に、「同性愛行為」によって、投獄されたり、場合によっては死刑に処せられることがあります。過去の欧米でもそうでした。イギリスやドイツでも1960年代までは、同性愛は犯罪(crime)でした。それなにの、なぜ、彼ら/彼女らは「同性愛を<選択>」したのでしょう? 
同性愛以外の<嗜好>ならば、SMであろうが、「髭好き」であろうが、「長身愛」であろうが(もちろん男女間でもソドミーが禁止であった場合は知っています)良いのに、なぜ彼ら/彼女らは、同性愛行為を選択したのでしょう(敵対的な揚げ足を取られないように、ペドフィリアやレイプは現在でも禁止されているということは確認しておきましょう)。

それは、やはり、その人たちにとっては、同性愛が「生まれつき」で<選択>できないからなのではないでしょうか。僕が弁護士ならば、「生まれつき」を「断罪」する法律を、「別の民主的プロセスを可能にする法概念」──つまり「自由」や「平等」を掲げ、彼/彼女を全力で、死刑という求刑から救います/救いたいです/救いたかったです。それしか、ないからです。

「相手の身長にはこだわらない」という同性愛者を「両身愛者」であると決めつけるのと同じくらい不当です

いいえ、同性愛が「犯罪」とされるならば、同性愛者と「区別」される「両身愛者」という「概念」が、彼/彼女を「救う」てだてになったはずです。

彼/彼女は、決して、「バカな<選択>」をした「犯罪者」では、ありません。彼らの「生得の<指向>」の<後>に、それを取り締まる法律が登場したんです。

また、自分の性的指向が、自分の「信条/道徳」、育ってきた「環境」と齟齬をきたし、自殺を試みようとする人たち──多くは思春期の少年・少女です──には、「それは、生まれつきで仕方がないのだから……」と説得します。彼らが、自分の<選択>が「親に迷惑をかける」と思いこんでいたのなら、なおさらです。「自分の育てかたが悪かった」と、うろたえる、少年少女の両親にも、「育てかたでゲイやレズビアンになるわけではない」と訴えます。

彼らは、決して「親不孝」ではありません。「両親を悲しませる<選択>」をした「不良」ではありません。彼らが罪(sin)の意識で自殺するような悲劇は絶対に避けたいのです。そこまで十代の少年・少女を追いつめる<性的選択>ってなんでしょう? もし、厳格なキリスト教の家庭に生まれた少年少女が、もし、性的指向を<選択>できるのならば、どうして「同性愛なんか」を<選択>するのでしょう。

こういったことによって、僕(たち)が、「性的指向」の「生まれつき」を強調し、それがあなたたちにとって「抑圧」だと言うのならば、しかたがありません。そのことをして「名誉白人」だというならば、それもしかたがありません。