HODGE'S PARROT

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重層的決定/重層的非決定

眠るつもりだったのだが、いろいろと考えていた目がさえてしまって……ま、明日は金曜日だからいいか。というのも、さっきトイレにたったとき、閃いたものがあったので。

Macskaさんの意見を、ざっとですが、とても興味深く読ませていただきました。
http://macska.org/index.php?p=48#more-48

僕は<指向>を主張することが、即ち他の<嗜好>の「抑圧」には必ずしもならないと思うし、逆にすべてを<嗜好>で「表現」することが最善であるとは、今でも思っていません。
しかしこの一連の議論の中で自分の「立居振舞い」を反省する機会にはなったと思います。

デーナ・リチャード・ヴィアのハンナ・アレント論『政治・哲学・恐怖』のあとがきにアレントの「真理と政治」からの引用がありました。Macskaさんの意見は、これに近いのではと思い書いておきます。

政治の思考は代理者としてなされる。私が意見を形成するとき、異なる複数の観点から特定の問題を考え、そこにいない人々の立脚点を私の心に思い浮べる。すなわち、私はそれらの人々を代理する。問題は、私が実際には身を置いていない場所にあたかもいるかのようにして、私自身の主体性を生かして考えることである。私がある特定の問題を考えるときに、より多くの人々の観点を自分の心の中に置くことができれば、そしてもし自分がその人々の立場にいたらいかに感じていかに考えるかをよりよく想像できれば、それだけますます私の代理者としての思考能力は強くなるであろうし、私の最終的結論、つまり意見は、ますます強い妥当性をそなえるであろう。

ただ、Macskaさんの意見に反論もあります。それは、やはり「選択」の問題です。

また、同性に性的な魅力を感じること自体は「選択した覚えない」体験であったとしても、実際に同性とセックスするかどうかは「選択可能」な「行為」に違いない。

ここは無理がありません? まあ「非決定」も一つの「決定」であることは、わかります。
もちろん「実際にセックスをするかどうかは」選択です。しかし、僕が言っているのは、実際にセックスをするかどうかは問題ではなく、同性に「欲望」を感じること、それ自体が「非決定」、すなわち「選択をしていない」ということです。

以下に書くことは、マジメなことです。そしてとても重要なことです。さらに、tummygirlさんやMacskaさんの「選択」ということに、僕がどうしても「納得」がいかないこと、一連の議論のすれ違いの「原因」なのかもしれないことです。
Macskaさんは女性だと思うのですが、それを前提としてですが、もしかして僕たちの議論の「すれ違い」は、セクシュアル・マイノリティについての理解のし方だけではなくて、ここに、もっと古典的な図式、すなわちジェンダー・ギャップがあるのではないでしょうか。そうなると身もふたもない議論になってしまうのですが……。

つまり僕が「選択した覚えがない」というのは、Macskaさんが言うようにレトリックとしてではなくて、実際にそうなんです。つまりペニスが「勃起」してしまうんです。同性(男性)のエロティックな姿態を見れば、意志とは別に、性器が反応してしまいます。「欲望」を感じてしまいます。Macskaさんが説明しているような、複雑なメカニズムはないです。とても単純なものです。そして、その「欲望」を実際の「性行為」にするかしないかが「選択」です。

現在3時を過ぎているので、まとまった考えが浮びませんが、「身体性」というのも考慮に入れるべきなのかもしれません。